寛仁さまが逝去 66歳寛仁さ

三笠宮崇仁(たかひと)さま(96)の長男で天皇陛下のいとこにあたる寛仁(ともひと)さまが、6日午後3時35分、多臓器不全のため東京都千代田区の杏雲堂病院で亡くなられた. 皇位継承順位6番目で66歳だった. 本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は14日を軸に宮内庁などで調整している. 関係者によると、寛仁さまは葬儀について「極力、簡素にするように」との遺言書を残しているという. 寛仁さまは3月に同病院でがん関連で16回目となる手術を受け、入院中だった. 1日に口の中から出血. 5日には腎機能が低下して尿が出なくなり、肺炎のため呼吸機能が低下. 肝臓の解毒作用も低下した. 血圧も下がり、呼びかけに答えない意識レベルになっていた. 寛仁さまは「ヒゲの殿下」と親しまれ、皇室の枠にとらわれず、ラジオの深夜放送に出演して全国の若者に語りかけたり、皇籍離脱の意思表示をしたりと、常に型破りな存在だった. 障害者の社会参加を進める福祉活動にも熱心に取り組んだ. 自ら記者会見に臨んで質問に直接答えるなど、積極的にかかわった. 昨年5月には東日本大震災で被災した宮城県を訪れて障害者の施設を見舞い、救援活動にあたる自衛隊員らを激励した. 皇位継承問題をめぐっては2005年、会長を務める福祉団体の機関誌に随筆を寄稿. 当時の小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」などで議論されていた女系天皇容認論に異議を唱え、皇位の男系主義を崩すと「いつの日か、『天皇』はいらないという議論に迄(まで)発展する」と主張した. 天皇陛下や皇太子さまが沈黙を貫く中、その後も月刊誌などで女系天皇に反対する持論を展開. 皇族が政治に与える影響の是非を巡って論議も呼んだ. また、皇族で初めて患者としてがんの告知を受けて病状を公表し、20年あまり闘病を続けた. 90年暮れ、食べ物がつかえるような異常を胸に感じ、91年1月に下部食道のがんで手術を受け、「医者が取材に煩わされず治療に専念できるように」と病名を公表した. その後も舌の付け根やのどなどにがんが見つかり、公務の合間をぬって手術を繰り返した. 07年にはアルコール依存症治療のため入院. 「がんが再発したとか、違う病気なのかと、色々な臆測や推測で話題にされるのが嫌だった」として、宮内庁の反対をおして自ら経緯を説明した. 皇室典範論議や家庭内の問題などで心労が重なり、酒量が増えたことを明らかにした. 宮内庁の日野西光忠・宮務主管によると、6日、寛仁さまは、母の三笠宮妃百合子さま(89)、姉の近衛●子(やすこ、●はうかんむりに心の下に用)さん(68)に見守られ、ともに付き添った長女彬子さま(30)、次女瑶子さま(28)が「お父さま」と呼びかける中、息を引き取ったという. キューバを訪問したローマ法王ベネディクト16世は28日、フィデル・カストロ国家評議会議長と会談し、信仰や環境問題などについて意見を交わした. また、ハバナの革命広場で約30万人の市民を集めた野外ミサを開き、「キューバも世界も変わる必要がある」などと述べた. キューバの英雄チェ・ゲバラの巨大な肖像と聖母像が見下ろす革命広場には、ラウル・カストロ国家評議会議長も参列. 法王は演説で「真理を追究する道をねじ曲げ、非合理な狂信に閉じこもってそれを押しつける人々がいる」などとも述べた. フィデル氏と法王との会談は30分間に及び、フィデル氏は妻と息子を法王に紹介. フィデル氏は85歳で、法王より1歳年長だが、法王は「年をとっても仕事は出来る」などと冗談をとばしたという. UGG ブーツ オーストラリア 政治的な話はしなかったと見られる. 法王は3日間の滞在を終え帰途についたが、空港での最後の演説では、米国のキューバへの経済封鎖を非難. ラウル議長は「多くの一致点があった」としたうえで「全てを同じように考えているわけではない」と語った. (ハバナ=平山亜理). ガチャフォース』イーカプコン限定再入荷が